2015年3月に書いたもの

一年遅れで東京大学文学部を卒業しました。
卒業に際して長文投稿をするというのはあまりにも陳腐ではありますが、
東大という、学問をする場として最高に恵まれた環境で出会えた魅力溢れる人たちと、研究や学問の話をもっとしておけばよかった、という後悔があるので、
理科二類からわざわざ文転して心理学を専攻し、また院で理転するという一風変わった進路選択について説明する機会が多いこともあり、
心理学とおさらばになるこのタイミングで、自分が何を学んできたか、心理学とは何かという自分なりの考えについて述べておきます。超絶長文です。
***
心理学というのは、心という究極の主観を、科学の対象として客観的に扱おうとする「心の科学」です。
なぜ科学を標榜する心理学が文学部に存在するかというと、
手法としては極めて理系的ながらも、心という対象は伝統的に文学部が取り扱うものであったためです。
私からすると心理学が文学部にあることの方が違和感があるので、文転したという意識はさらさらなかったのですが、
人間はその所属において判断されるものなので、文学部のステレオタイプを背負いながら生きているのはとても歯痒い思いでした。
学問分野における文系・理系のカテゴライズは基本的に取り扱う対象で分類されていて、一方人間に関して「理系っぽいタイプだ」などと語るときには、手法や思考過程をもとに分類されていることがそのミスマッチの原因なのだと思います。
***
工学博士で、文学部心理の教授である横澤先生はエッセイの中で、
「人間探求が主たるテーマであるはずの文学部において、人間についての基本が如何にまだ解明されていないかということを気づかせてくれる学問が認知心理学」と述べています。
(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/teacher/essay/2006/3.html)
(この「私の選択」という文学部教員によるエッセイ集はどれも読み応えがあります)
科学が発達するまでは、心について問うことは哲学者の特権でした。ところが今では心理学・脳科学・工学・薬学・生命科学・情報学など、幅広い分野で人間の意識・認知についてアプローチすることが可能となりました。
その複数あるアプローチの中で、人間一般の、個体としての世界の捉え方を素朴に追求する学問が心理学です。ちなみに社会心理学は集団としての人間の性質を取り扱う学問で、東大文学部ではこれらは異なる専攻になります。
***
ただし、主観を客観視するという試みの限界は2年間でひしひしと感じました。
それでもやはり人間について知る上で、人間の反応・行動を直接調べるアプローチはシンプルで他では補完しがたいものであるし、試み自体とても挑戦的で面白いと感じます。
「心理学なんて疑似科学だ」と言われてしまうことを真っ向から否定することは難しいけれども、(といっても、この批判は心理テストやフロイトアドラーなどの精神分析学といった、心理学ではないものを指していることが多い)
だからといってその意義が損なわれるようなことにはならないように思います。
例えばドレスの白金/青黒の話はまさに心理学が取り扱う内容ですが、
「どうしてだろう?」という人々が抱く素朴な問いに、一定の納得行く回答を示すことができるのは、有用なレベルで科学的であるからでしょう。
***
卒業研究のテーマの一部が感覚運動学習というものだったのですが、
「目の前の物体に手を伸ばす」というだけの単純な運動がものすごく奥深くて、
能動的な環境探索の過程で、脳のフィードフォワード制御による予測と、感覚入力からのフィードバックが見事に協応して瞬く間に学習が進んでいくのを知り、
こうやって自己と環境との関係性から世界が獲得されていくのだなあ、と感動したものでした。
こうした学習機能を個体レベルへと転用したメタファーを考えてみると、
他者によるフィルターを通じて得られた知識だけをもとに世界を理解しようとしたり、じっと動かないまま自己についての理解を試みたりするだけでは不十分で、
環境に能動的に働きかけていくことではじめて、自己について明らかになるのではないか、などと考えてしまいます。
常につきまとう自分というフィルターのうち、人間一般に備わる性質は心理学が明らかにしていて(バイアスなどと呼ばれる)、自分独自の傾向については環境を変えながら差分をとっていき、自分で知るしかないのだと思います。
***
ところが私はこれまで自分の身近な狭い範囲で探索するばかりで環境についての知識を得ることを疎かにしていて、歴史・地理・経済・宗教・政治などは自分とまったく関係のないシステム側の話だからと興味が持てずにいました。
しかし自分の世界について知るには、一般的な環境への理解と、関係性の学習が両方必要であって、
これらの学問が、自分の探索の及ばないレベルでの自己を取り巻く環境の仕組みを、時間軸的にも視野的にも広く捉えたものなのだと理解できた瞬間、
これまで意味不明な記号の羅列にしか思えなかった文系学問たちも途端に文脈を帯び出して、自分の糧になった気がします。
最初は文学部に所属することが嫌で嫌で仕方がなかったのですが、こうして文系学問アレルギーがなくなったことはよい経験でした。
違う文脈の中での再定義が学習にとって重要というか、そもそも学習とはそういうものかもしれないな、と考えています。
***
卒論ではなかなか思うような成果が出せず一年非常に苦しい思いをしましたが、
振り返ってみると、先生や周りの人に認めてもらいたいというモチベーションで実験を進めてしまっていたような気がします。
以前承認欲求についてもやもや考えていたものも結局、
「自分の価値判断の基準を外部に委ねており、自分の内部にそれがない」
(http://d.hatena.ne.jp/next49/20090222/p2)
ことに尽きるのではないかという反省です。
この記事でいう「精神的背骨」を大学院生活で養っていきたいです。
***
ただでさえ卒業投稿で溢れ返っている中でこのグダグダの長文がまともに読まれる気がまったくしませんが、
興味を持ってくれた人が少しでもいれば幸いです。

2015年9月に書いたもの

4月から晴れて大学院生になって、賑やかな研究室で華々しい?ラボ畜ライフを送っているところです。楽しいです。
最近は将来どうしたもんかな、とすごく真面目に考え始めています。。

この1年ですごく痛感したのが、
デキる人たちはすごく体力があるということです(肉体的にも精神的にも)。

あとは変に奇を衒って目立とうとしなくても、やるべきことをきちんとこなすだけで十分すごいというか、案外当たり前のことを当たり前に実行するのってなかなか難しいなあと痛感してます。

科学から工学にうつって感じることは、素早くプロトタイプを作って頭の中のアイデアを外に形として出せる工学系は強いなー、というのと、実際にモノがあって体験できることのインパクトって強いなーと。
科学だと文脈を知ってようやく凄さが分かる、というものが多いけれど、VRとかの感覚に直接訴えるものって有無を言わさず凄さが伝えられるので、そこは大きな違いだなと感じています。
本当は欲を言えば原理解明と工学的実装とがうまく回るような研究がしたいなと日々思っているけれども、口で言うのは簡単でも実際にやるのはとても難しい、、

この1年何をしてたかな、と振り返ってみると本をたくさん読んでいたような気がするので、適当に良かった本をピックアップしてみました。
タイトルやAmazonレビューを見て買う本は外れる事が多いのだけれども、私の性格や趣味を知っている人が強く薦めてくれる本は大抵面白いので何か私の趣味に合いそうなオススメあれば教えてください。

↓めっちゃよかった本5選↓
ゲーデルエッシャー、バッハ

 

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

 

 

脳は空より広いか

 

脳は空より広いか―「私」という現象を考える

脳は空より広いか―「私」という現象を考える

 

 

昆虫はすごい

 

昆虫はすごい (光文社新書)

昆虫はすごい (光文社新書)

 

 

人工知能は人間を超えるか

 

 

完全教祖マニュアル

 

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

 

 

↓わりとよかった本5選↓
赤を見る

 

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

 

 

銃・病原菌・鉄

 

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
 

 

最強ヘッジファンドLTCMの興亡

 

最強ヘッジファンドLTCMの興亡 (日経ビジネス人文庫)

最強ヘッジファンドLTCMの興亡 (日経ビジネス人文庫)

 

 

データの見えざる手

 

 

アルゴリズムが世界を支配する

 

アルゴリズムが世界を支配する (角川EPUB選書)

アルゴリズムが世界を支配する (角川EPUB選書)

 

 

最後に、この1年ほとんど写真を撮っていなくて貼る画像がなかったので、DNN画風変換アルゴリズムで遊んでみたものを貼っておきます。芸術とは組み合わせなのですね。

f:id:ut0730:20160329235500j:plain

f:id:ut0730:20160329235505j:plain

f:id:ut0730:20160329235510j:plain

ベイマックスの矛盾とペンローズの三角形

ベイマックスを観た。映画を観るのは一年に一度あるかないかレベルであって映画の教養がほとんどないため、映画全般に対する感想とベイマックス自体に対する感想とが入り混じって切り分けられないのだけれども色々と考えるところがあった。

 

・「あまりにも凡庸かつストレートなストーリーなのに、多くの人にウケた(≒共感した・飽きずに引き込ませ続けた)」

・「かなりの分業体制で制作されている」

という2つの事実が目を引いた。

 

まず前者の理由について。グラフィックにも世界観にも、心地よい絶妙な矛盾があることによると感じた。

 

心地よい矛盾とは

ペンローズの三角形のように、ローカルで矛盾していなければグローバルな矛盾を人間は認知しにくい。馴染みある世界観と、新規な世界観とで、それぞれローカルに整合性が保たれていれば、それらの矛盾は心地よく、新規な世界観の受容を容易にする効果があるのではないか。

 

世界観の矛盾について

ロボットが空を飛ぶSF的近未来の世界観の中で、警察署や鉛筆削りの存在などの身近な部分はやたら現代的である。最近では人工知能分野の議論で、シンギュラリティと職業問題について、未来の技術を現代の職業観でもって語る論調がよく見られる。人間が未来を想像する際には、何かしら身近な価値観を担保にすることが必要なのではないか。すると、人間の想像力や創造性に一定の限界が存在するように感じる。創造的に感じられるものも、既に存在する何かしらの知を他から転用しているだけであって、想像力の限界は現在の状態にかなり依存する気がした。

 

グラフィックの矛盾について

デフォルメされた人間と、人間以外の描写の3Dさ。この心地よい矛盾の融合の傾向の極限は一体どこなのだろうかと疑問に思った。もう既に極限に近いのではないかとも感じた。デフォルメ技法は、人間の用いる特徴量を強調して描くという経験知なのだろう。

 

「かなりの分業体制で制作されている」について

芸術の類は、「個々の要素の最適化は必ずしも全体の最適化に繋がらない。むしろ、要素要素の"ムダ"が、全体の価値を高める」と考えていたが、どうも個々の最適化で全体も最適化されているようだった。それが普遍的に通用するのか、優れた映画固有の技法なのかは分からない。

ドワンゴの川上会長が同じようなこと言ってたとか言ってないとか聞いたけどよくしらない。

まとめ

映画などは、一面的な価値観を押し付けられる感覚が苦痛、かつ、たとえ共感できたとしても共感自体は自分の学びにはほとんどならない、というのとで今まで忌避してきていたけれど、「多くの人が共感したor世界観に引き込まれた」という前提条件がある場合には割と学びあるものなのだと分かった。

 

皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則

皇帝の新しい心―コンピュータ・心・物理法則

 

 

 

 

その後

思わぬところでベイマックスの話につながった。 

 

承認欲求

最近承認欲求について色々と考えていて、なんのオチもなくてひたすら長文なのですが、

承認欲求を即時・短期的に満たそうとする人に対して、

「承認欲求に満ちた欲深い人間め!
自分は無欲で高潔な人間だからそんな卑しい行為はしないぞ!」

って見下すような構図がよく見られるのだけれども、
欲求の満たし方の戦略選択はそれぞれの価値観の問題であって優劣はなくて、
皆同様に欲深い人間なのであるということをもっと素直に認めて自覚的であってもいいんじゃないかなー、と。

「即時的に欲求を満たすことは、長期的にみると却って自分の欲求を満たす結果にならない」
と経験的に知っている人が即時的戦略を取らないだけであって、
どちらも同じく承認欲求に突き動かされてるのは変わりないはずなのに、
特に自分と同じフィールドで、戦略性(承認を得たい対象/短期・長期性/リスクの取り方etc.)が違ったりする相手に対して人間はやたら攻撃的になることがあって、

そういう同族嫌悪は、
”戦略の違う人が欲求を満たすことに成功しているのを見ると自分の戦略に不安を覚えて羨ましくなってしまうんだけど、
今更戦略を変えるわけにもいかないので自分の正当性を認める主張をすることで認知的不協和を解消している”
のかなーと。

コツコツ真面目に勉強してきた人がコネを使った人に対して卑怯だと糾弾するようなのとか、
欲つながりだと"食欲を満たすメリット>健康維持・外見上のデメリット"という判断で好きなだけ美味しいものを食べてる人に対してデブ呼ばわりして見下したりとか。

そういう嫌悪感を抱いたときこそ、
自分が暗黙にとっていた戦略について知る格好のチャンスかもしれないなーと思いました。

意識しないと自分の設定した制約条件の中での最適解を出すことに尽力しがちで、
認知的には多分それが楽なんだけど、
制約条件自体を疑うことのできる視野の広さと、
サンクコストに惑わされない冷静さがあると、
うまく人生ゲームを攻略できるのかなーなんて、
自分なりに最近考えていました。

人生の早い段階で刺激的な満たし方に馴化してしまうとだんだん対象や手段がマンネリ化してって、行き着く先が愛人作るとか(はたから見て)訳のわからないオカルトじみた方向に走り出すとかなんですかね、それとも承認欲求満たしゲーをクリアーした暁には何かもっと高尚な世界観のボーナスステージが待っているのでしょうか。

承認欲求を持ってること自体がやたらとタブー化されてるのは全体としてはやっぱりそこが均衡点で、宗教とかもそういうところに落とし込んでるのかもしれないです。

と、ここまで書いてきて、
「皆強欲に違いない」と決めつけて、
自分が強欲であることを正当化しようとしているだけかもしれないな、
と人間の認知の歪みをまさに身を以て痛感し、
自分の観測範囲だけから断定的に物事を論じることの危うさを感じました。

ところが多くの場合聞き手側が求めているのは不確実性を伴う事実ではなくて自分の信念に合致する断定的解釈だろうし、
それも加味するとなんだかんだ戦略的なのかも、とか、難しくてお手上げです。

ほんとは「でもそんな承認欲求まみれなとこが人間っていいよね~」
とか「知的好奇心が極限まで満ちあふれた人は承認欲求なさげであいつらすげーよ」
ってことも長々と書いてたのですがあまりに長すぎて超絶カットしたのにまだまだ長文すぎて、読む人いるのかなこれって感じになってしまってまずは簡潔に話ができるようになりたいと思いました。

バカすぎてつらい

自分のことを賢いと思って生きてきたし、実際勉強はそれなりに得意だ。
 
だが今、周りの賢い人たちにまったく付いていくことができない。自分がバカすぎてつらい。生まれもっての思考様式が違う生き物にしか思えない。頭のよさは、努力で超えられる壁なのだろうか?
 
 
自分が頭がいいと思う人の特徴は、
 
・一見正しそうにみえる論理の抜け穴がすぐ分かり、指摘できる。(そもそも、自分を含む大多数の人間が表面的な論理っぽいものにすぐ同様に惑わされてしまうというのも逆に不思議だ。)
 
・思考の深度を自由に行き来できる
 
・論点が整理できていて、明確。ポジショントークにならない。
(自分は発散思考にいつも陥ってしまい、論点がすぐにずれてしまう。よって建設的議論ができない。)
 
・話の全体像と、要素の関係性が一望できている
 
・以上のことを一瞬のうちに行う
(自分が熟慮を重ねてようやく分かるようなことを、彼らは一瞬のうちに理解できてしまう)
 
・むやみに難しい言葉で語らない
 
 
 
頭のいい人たちの議論を聞いていると、何を話しているのかさっぱり分からない。単語だけが横滑りしていく。
思考スピードが速すぎて、何か事前に打ち合わせでもしていたのではないかと思ってしまうくらい、理解できない。
さらに、頭のいい人の質問の意図が、自分にはすぐに理解できない。いつも見当違いの返答をして、苦笑されてしまう。だが、何が聞きたいのか、一体全体自分には分からないのだ。
 
 
 
 
自分は地図がまったく読めなくて、メタな空間的認知ができない。空間を把握するとき、自分と対象の関係性しか考えられない。
ふと、それが関係しているのではないかと思った。
つまり、頭のいい人たちには論理関係が空間的に把握されているのではないかと。
 
 
 
いったい、頭のいい人たちの頭の中には何が見えているのだろう?
 
努力や経験で、その景色は見えるようになるのだろうか?