例外として生きていく

 
以前,人工知能学会誌「人工知能」上の学生フォーラムという企画で触覚研究者(という枠には全然とどまらないのですが)の渡邊淳司さんにインタビューをしました.
 

「ウェブサイトのダウンロードランキング1位になってたよー」と聞いて,見てみたら本当に1位だった!

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きっと稲見先生のツイート砲のおかげだったのだと思うのですが,

 読み返してみたらやっぱり面白い.

境遇が似ている人をインタビュイーとして選定して,自分の興味のあることや自分に関連することばかり聞いたので,自分が読んで面白いのは当たり前なのですが,

何かの間で揺れ動き,葛藤し,自分が何者なのか自分に問いかけ続け,どうにかストーリーを紡いでいき,価値を作り出していく...という経験は,誰もが共感するところだと思います.
そして,そうやって個人のエピソードを誰もが共感できるレベルのストーリーとして昇華して意味づけているのはさすが淳司さん!といった感じ.

自分にとって情報量のないことってまったく面白くないので,私は他人の人生に何が起こったかとか,その人がどんな人間なのかとか,そういうエピソディックな話はそれ自体ほとんど興味がないし,どうでもいいと思っているのですが,

自分に起こったことをきちんと意味づけている人の話ってすごく面白くて引き込まれますよね.

僕は,知覚心理学の分野でもバーチャルリアリティ (VR)の分野でも,真ん中,王道にいるわけではなく,どこにいても例外みたいな生き方なんです.
どちらの分野にとっても,なんか変な面白そうなことをしているトリックスターのような存在.
ただし,そういう立ち位置では,全部が中途半端になったり,適当なことを言って いるだけの人になりかねない.

 自分の存在はそれぞれの分野でどんな意味があるのかということを,自分で説明しないといけない.

──特に,アート寄りの内容を学術的な論文にするのは とても難しそうに思えます.

アート作品自体には引用文献がないので,どういう歴史の中で出てきたものなのかがわからないことが多いのですが,実はそれぞれにきちんとコンテクストがあるわけですよね.
それを掘り起こしたうえで,「社会的にこ ういった問題が重要であり,それを体験的に理解することで新しい価値観を見いだすことができる.その表現にはこの技術しかない」といった書き方を僕はします.
本当の意味でのアートでは,言葉にすることは意味をなさないかもしれないのですが,作品や体験の本質を保ったまま,どうにか論文というフォーマットの中で表現するにはどうしたらよいのかということを考えます.

私達は物事の本質を探究し,人に伝える研究者であって,物事の価値を押し付けてはいけない.

博士課程のときは本当に苦しかったです.

自分が何者でもないし,誰にも認めてもらえない.

自分が何をやっているかもわからない.そもそも研究を続けたとしても, この先その業界で生きていけるかもわからない.

無理をして悪目立ちする必要はないけれど,どうやって自分の研究の価値をつくり出していくか.

これは重要なことです.

もちろん新しい領域で,面白い手 法を使って研究を進めていくことができるのは,既存の 分野で研究をやっている人がいるからです.

そういった研究への敬意が必要なのはいうまでもないことです.

特に面白かった話はアルファ碁の話.スペースの都合で結構はしょっちゃいましたが,インタビューのときはこの話でだいぶ盛り上がりました.

主体感という言葉こそ使っていなかったものの,二人羽織実験に近いものがあるなーと.

2016 年 3 月に AlphaGo の対局が話題になりましたが,僕はコンピュータ側で碁石を置いている人の気持ちにすごく興味がありました.

碁石を置く人は,コン ピュータに言われたとおりのことをやっているだけですが,その行為を通じて,だんだん心理的には自分自身が考えてやっているような気持ちになってくるんじゃない かと思うんですよね.

その変化を観察してみたいです.

以下から無料登録で読めるので,ぜひ.

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